南米の野良犬問題と観光の衝突|ペルー・チリで深刻化する「観光・安全・動物福祉」の三つ巴

マチュピチュ遺跡の石畳を歩いていると、ふいに一頭の犬がそっと近づいてきます。
痩せてもいない。怖くもない。ただじっとこちらを見つめている——。
この光景は、ペルーを旅した人なら一度は経験したことがあるかもしれません。南米を代表する観光地では今、野良犬の問題が静かに、しかし確実に深刻さを増しています。
観光客への被害リスク、地域住民の安全、そして命の問題として避けられない殺処分への反発。
この記事では、南米における野良犬問題と観光の衝突を、データと現地の声をもとに多角的に読み解いていきます。感情論でも行政批判でもなく、「では何が本当の解決策なのか」を一緒に考えていきましょう。
南米の野良犬問題の現状:数字が示す深刻さ
世界全体の野良犬問題との比較
まず、大きな視点から現状を把握しておきましょう。
世界保健機関(WHO)の推計によれば、世界には約2億頭の野良犬が存在するとされています。その影響は単なる「治安の問題」にとどまらず、公衆衛生上の深刻なリスクとなっています。
とりわけ狂犬病(Rabies)は、WHO分類で「ネグレクト熱帯病(Neglected Tropical Diseases)」に指定されており、世界全体では年間約5万9,000人が死亡しています。その99%が犬を介した感染です。
一方、中南米地域では過去35年間で狂犬病による犬・人の感染事例が約95%減少しており、パン・アメリカン保健機関(PAHO)が主導してきた犬のワクチン接種プログラムの成果が表れています。
ただし、これは「解決した」という意味ではありません。
PAHOによれば、ボリビア・グアテマラ・ハイチ・ドミニカ共和国では依然として犬由来の狂犬病が風土病として残存しており、ペルーやブラジルの一部地域でも孤立した感染事例が報告されています。
ラテンアメリカ特有の背景
科学誌PMCに掲載された研究(Abandonment of dogs in Latin America: Strategies and ideas)によれば、ラテンアメリカ全体において野良犬問題の根本には以下の構造があります。
- 貧困と教育格差:動物の避妊・去勢手術が経済的に難しい家庭が多い
- 文化的背景:犬を「所有物」として管理する意識が希薄な地域がある
- 動物管理インフラの未整備:公的なシェルターや動物管理局の人員・予算が著しく不足
- 急速な都市化:農村から都市への人口移動に伴い、飼育放棄が増加
1頭の雌犬と、その子孫が産む新たな命を計算すると、6年間で約6万7,000頭の繁殖ポテンシャルがあるとも言われています。
不妊・去勢手術なしにこの問題を制御することが、いかに困難かがわかります。
ペルー・クスコの実態:世界遺産の街に暮らす1万4,000〜4万頭
クスコ:観光と野良犬が共存する街
インカ帝国の旧都であり、マチュピチュへの玄関口として世界中から観光客が訪れるペルーの古都・クスコ。
この街には、公式推計で約1万4,000頭、最新の見積もりでは最大4万頭もの野良犬(スペイン語:perros callejeros)が暮らしていると言われています(Globalteer調べ)。
世界遺産の石畳を歩く観光客の隣で、犬たちはゴミを漁り、日向ぼっこをし、夜になると群れをなします。現地で長年暮らすスペイン語教師は、こう語っています。
「犬たちは大きな問題になっています。あまりにも数が多すぎる。市にはいくつかのプログラムがありますが、リソースが足りない」
これはメディアの誇張ではなく、現地に長く住む人々の率直な声です。
「野良犬」と「放し飼い」の混在
ただし、重要な点があります。
クスコで見かける犬のすべてが「真の意味での野良犬」ではありません。
観光ガイドや現地のレポートによれば、ペルーでは飼い主がいる犬を昼間だけ外に出す文化が一部に根付いており、見た目には区別がつきにくい状況です。健康状態が良好な犬も多く、「自由に歩き回る犬=危険」とは必ずしも言えません。
しかし問題はその数です。管理されていない状態で犬の個体数が増え続ければ、必然的に争いが生まれ、感染症が広がり、一部の個体が攻撃性を持つようになっていきます。
クスコ市内では、コブラドと呼ばれる縄張り意識を持った犬たちが交通渋滞を引き起こしたり、ゴミ収集日(火・金曜日)に群れをなしてゴミを荒らす光景も日常化しています。
観光客への影響:旅行体験と安全リスク
犬への恐怖が「旅の障壁」に
TripAdvisorのペルー観光フォーラムには、こんな相談が寄せられています。
「クスコに行くことを考えているのですが、犬への強い恐怖症があって…。モンテネグロでは野良犬につきまとわれて旅が台無しになりました。ペルーはどうですか?」
これは特殊な例ではありません。実際、犬恐怖症(Cynophobia)は世界的に一般的な恐怖症のひとつであり、南米旅行を断念する理由として挙げるケースも報告されています。
現地のガイドや旅行者のレポートによると、クスコの犬は基本的に人懐っこく攻撃的ではないものの、次のような状況でリスクが高まります。
- トレッキング中や山岳ルートでの追従:一度「仲間」と認識されると長距離にわたって後を追ってくる
- ゴミ置き場付近での群れによる威嚇:食料をめぐる縄張り争いが起きているエリア
- 交通量の多い道路での事故リスク:犬が道路を横断することによる二次的な危険
狂犬病ワクチン:旅行前の準備という現実
外務省の海外安全情報でも、南米諸国の一部地域では感染症リスクへの注意が呼びかけられています。
実際、南米への渡航者に対して、医療機関では狂犬病の予防接種(暴露前予防接種)を検討するよう推奨するケースがあります。ペルーのプノ地方やブラジルのマラニョン州などは、PAHOがハイリスク地域として名指ししているエリアです。
ただし、繰り返しになりますが、クスコや主要観光地における犬による死亡事例の報告は極めて少なく、「南米の犬は危険」と断言するのは事実の歪曲です。問題はリスクの存在ではなく、それが「見えにくい」ことにあります。
旅行者の「好意的行動」が招くジレンマ
動物好きの旅行者がペットフードや食べ残しを犬に与える——これ自体は温かい行為です。
しかしこの「好意」が、意図せず問題を複雑にしている側面があります。
- 観光客から食料をもらうことを覚えた犬が観光スポットに定着し、個体数が増加
- 「観光客が餌付けをしている」という認識から、地域住民の管理意識が薄れる
- 犬を排除しようとする地方当局と、保護しようとする観光客・動物愛護団体との対立
一頭の犬に向けた愛情が、結果的に一頭の命を危険にさらしてしまう——これが南米の野良犬問題が持つ、深い矛盾のひとつです。
殺処分という「解決策」の限界と反発
自治体が選択してきた「最終手段」
クスコを含む南米各地の自治体が過去に採ってきた対策のひとつが、毒殺や「選択的殺処分(selective slaughter)」です。
増えすぎた野良犬を一時的に減らす手段として機能はしますが、この方法には科学的にも倫理的にも、根本的な限界があります。
まず科学的問題点から整理します。
殺処分によって個体数を減らしても、残った犬の繁殖率が上がり、数週間〜数ヶ月で元の水準に戻ることが複数の研究で示されています(通称「真空効果」)。これは野生動物の個体群制御に共通する現象で、外部からの補充(野外からの流入)も加わると、殺処分単独では抜本的な解決にならないのです。
動物愛護団体の強い反発
クスコのプラサ・デ・アルマス(中央広場)では、「Angeles de 4 Patas(4本足の天使たち)」という動物愛護グループが何度もデモを行ってきました。救助した野良犬に抗議のプラカードを取り付け、街頭を歩かせるというユニークな方法で市民の関心を集めています。
また、「Cusco Protección de Animales」は2010年から活動を続け、地域啓発・リハビリ・不妊手術のモバイルサービスを提供しています。クスコ郊外には「殺処分なし(no-kill)」シェルターも設けられており、里親探しが続けられています。
日本との比較から見えてくるもの
日本に目を向けると、環境省のデータ(2024年度)によれば、保健所などで引き取られた犬は1万9,352頭、殺処分数は1,964頭です。2004年の15万5,870頭と比較すると70分の1以下にまで減少しており、官民連携と動物愛護法の改正が成果を上げています。
日本では2013年の動物愛護法改正以降、「殺処分ゼロ」を目標とした行動計画が環境省主導で進められてきました。犬については保護・収容後の譲渡推進が基本方針であり、保健所・動物愛護センターと民間シェルター・ボランティア団体の連携強化、譲渡会の拡大——これらが数字の改善をもたらしています。なお、TNR(捕獲・不妊手術・元の場所への返還)は日本では主に野良猫対策として実施されており、犬への適用はほぼ行われていません。
南米では、この「制度と文化の整備」が圧倒的に遅れています。それが問題の核心です。
なぜ野良犬が増えるのか:根本原因を整理する
問題の構造を「三層」で理解する
野良犬問題は、表面的には「犬が多すぎる」という話ですが、その背後には複合的な要因が重なっています。
第一層:個人レベルの問題
- 避妊・去勢手術の費用が家計的に困難
- 「オス犬を去勢するのは可哀想」という文化的意識
- ペットを家族の一員ではなく「番犬・作業犬」として捉える伝統的価値観
- 転居・失業・病気などによる飼育放棄
第二層:行政・制度レベルの問題
- 動物管理に使える予算の圧倒的不足
- 地方行政の人員不足と専門知識の欠如
- 動物の登録・マイクロチップ制度の未整備
- 一貫した動物福祉政策の不在
第三層:社会・文化レベルの問題
- 貧困率の高さが動物ケアの優先順位を下げる
- 動物福祉に関する教育の機会が少ない
- NGOと行政の連携が機能していないケース
重要なのは、これらが独立した問題ではなく、互いに絡み合っているということです。
たとえば「動物への教育」を進めようとしても、そもそも経済的に余裕がない家庭では犬の避妊手術を「後回し」にするしかありません。行政が「管理すべき」とわかっていても、インフラも予算もなければ実行できません。
チリ:南米でも際立つ問題規模
ペルーと並んで注目されるのがチリです。
チリは南米でも比較的経済水準が高い国ですが、野良犬問題は例外ではなく、2014年にはティエラ・デル・フエゴ州で「半野生化した犬による社会環境的緊急事態」が宣言されました(PMC掲載の研究より)。
コルドバ(アルゼンチン)では、公共の場で攻撃的な犬による被害事例が増加し、行政への対応要求が相次いでいます。南米全土で、観光客だけでなく地元住民こそが日常的に野良犬問題に悩まされているという事実は、見落とされがちな視点です。
世界と南米の成功事例:TNRとワクチン接種の力
PAHO主導の犬ワクチン接種プログラム
1983年にPAHOが開始した「犬の狂犬病撲滅に向けた地域行動計画」は、南米における最大の成功事例のひとつです。
毎年、南北アメリカ大陸では約1億頭の犬にワクチン接種が行われており、この積み重ねが狂犬病関連死亡を35年間で95%削減するという成果につながっています。
PAHOが示す知見によれば、犬の個体群の少なくとも80%に接種が届けば、狂犬病の感染連鎖を断ち切ることができます。
ワクチン接種は、単に感染症を防ぐだけでなく、個体群の健康状態を維持し、ひいては人間社会との共存を安定させる土台になります。
TNRの有効性と限界
TNR(Trap・Neuter・Return)は、動物福祉的観点から最も推奨される個体数管理法のひとつです。
- T(Trap):野良犬を安全に捕獲する
- N(Neuter):不妊・去勢手術を行う
- R(Return):元のテリトリーに返す
日本でも野良猫対策として広く導入されており、国立国会図書館の調査資料(第830号)によれば、TNRの有効性を示す事例として米国フロリダ州オレンジ郡では6年間で殺処分数が18%減少したことが報告されています。
ただし、TNRには条件があります。
地域の個体群の51%以上に手術が施されなければ、頭数抑制効果が得られないという研究があります。南米のように広大な地域で、無限に近い繁殖ポテンシャルを持つ犬の個体群にTNRを実施するには、継続的な資金と人員の確保が不可欠です。
Globalteer(英国NPO)の取り組み:クスコのモデルケース
クスコで活動するGlobalteerは、英国を拠点とする国際的な動物福祉NPOです。
ボランティアが現地のシェルターで犬の世話を行い、不妊手術・医療ケア・里親探しを組み合わせた包括的なプログラムを提供しています。小規模ながら、「外国人の観光ドル」が動物福祉に還元される一例として注目されています。
このような旅行と動物福祉支援を結びつけるエコシステムは、今後の南米観光のひとつの可能性を示しています。
観光・安全・動物福祉を両立させるには何が必要か
三つ巴の問題を「三方よし」に転換できるか
「観光振興」「旅行者・住民の安全」「動物福祉の確保」——この三つはしばしば対立するものとして語られます。
しかし、正確に言えば長期的には三者は利害が一致しています。
なぜなら——
- 野良犬問題が深刻化すれば、観光地としての評判が下がり、観光収入が減少する
- 観光収入が減れば、行政の動物管理予算も削減される
- 動物管理が手薄になれば、野良犬はさらに増え、住民と観光客双方の安全が脅かされる
この悪循環を断ち切るには、観光業が生み出す収益の一部を、動物福祉プログラムに還元する仕組みが必要です。
具体的に必要な施策を整理する
①法制度の整備
- 飼い犬の登録・マイクロチップ義務化(→ 迷子犬と野良犬の区別を可能にする)
- 動物遺棄に対する罰則の整備
- 動物愛護に関する国家標準の策定
②予算と人員の確保
- 観光税・入場料の一部を動物管理基金として積み立てる
- 地域の獣医学部と連携した不妊手術クリニックの定期開催
- 動物管理の専門職員の育成・雇用
③教育と文化変容
- 小・中学校での動物福祉教育の導入
- 地域コミュニティを巻き込んだ「地域犬(Community Dog)」プログラムの整備
- 飼い主向けの避妊手術補助制度
④観光業界との連携
- ホテル・旅行会社による動物福祉NPOへの寄付プログラム
- 「動物にやさしい観光地」認証制度の創設
- ボランティアツーリストの受け入れ体制整備
旅行者ができること:「良かれ」を「正しく」へ
旅行者の立場からも、できることがあります。
やってしまいがちな「間違った善意」
- 路上でむやみに食事を与える(犬の定着化と個体数増加を助長)
- 撫でたり抱き上げる(感染症リスクと犬のストレス)
- SNSで「かわいい野良犬」と拡散するだけ(問題の本質が伝わらない)
本当に役立つ行動
- 現地の動物福祉団体に直接寄付をする(例:Cusco Protección de Animales)
- シェルターでのボランティア体験を旅程に組み込む
- 現地での動物との接触前に、渡航前ワクチンを検討する
- 「野良犬問題」を帰国後に発信し、社会的認知を広げる
小さな行動の積み重ねが、遠く離れた土地の一頭の命を変えます。
まとめ:旅人にできること、社会が変えられること
南米の野良犬問題は、「犬が多すぎる」という単純な話ではありません。
貧困、文化、制度の不備、観光業の発展、そして「善意の無力さ」——それらが複雑に絡み合った、現代社会の縮図です。
この記事で見てきた事実を整理します。
- クスコには最大4万頭の野良犬が暮らし、観光との共存が難しい状況が続いています
- PAHOのデータでは南米の狂犬病関連死は大幅に減少したものの、一部地域では依然リスクが残存しています
- 殺処分は科学的に非効率であり、動物福祉的にも持続不可能な解決策です
- TNRとワクチン接種の組み合わせが、最も実績のある対策として認められています
- 観光業の収益を動物管理に還元する仕組みが、三者の利害を一致させる鍵になります
「かわいい」と感じる旅の一場面が、実は深刻な問題のひとつの顔かもしれません。
知ることは、変えることの始まりです。
もしあなたが今後南米への旅を計画しているなら、現地の動物福祉団体を調べて、一歩踏み込んだ支援を検討してみてください。 その小さな選択が、遠くの街で生きる犬たちの明日をつくっています。
参考・引用データ
- WHO(世界保健機関)「Rabies Epidemiology and Burden」
- PAHO(パン・アメリカン保健機関)「Rabies persists in only four countries of Latin America and the Caribbean」(2018年)
- PMC(米国国立医学図書館)「Abandonment of dogs in Latin America: Strategies and ideas」(2021年)
- Globalteer「The Problem of Stray & Roaming Dogs in Cusco, Peru」
- 環境省「犬・猫の引取り及び負傷動物等の収容並びに処分の状況」(2024年度)
- 国立国会図書館調査資料 第830号「諸外国における犬猫殺処分をめぐる状況」
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