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キリスト教と動物福祉:聖書は動物をどう扱うよう命じているのか?

キリスト教 動物福祉

 

はじめに:「神の創造物」としての動物をどう考えるか

 

現代社会では、工場式畜産、動物実験、野生動物の絶滅危惧など、動物にまつわる倫理的問題が日々議論されています。その一方で、世界人口の約3分の1が信仰するキリスト教において、動物福祉はどのように位置づけられているのでしょうか。

「神が創られたすべてのものは良いものだ」(テモテへの第一の手紙 4:4)という言葉が示すように、キリスト教は動物を含むすべての被造物を神の作品として認めています。しかし同時に、「地を従わせよ、海の魚、空の鳥、地の上を動くすべての生き物を治めよ」(創世記 1:28)という言葉も存在します。

 

この二つの聖句の間に生じる緊張関係こそが、キリスト教と動物福祉を考える上での核心です。本記事では、聖書テキストの精査、歴史的な神学の流れ、現代の教会の取り組みという三つの視点から、「キリスト教は動物をどう扱うべきと教えているのか」を深く掘り下げていきます。

 

聖書は動物支配を認めているのか?「ドミニオン(支配)」概念の再検討

 

創世記1:28をめぐる長年の論争

 

キリスト教批判の文脈でしばしば引用されるのが、創世記1章28節の「支配せよ(dominion)」という言葉です。歴史家のリン・ホワイト・ジュニアは1967年に発表した論文「生態系危機の歴史的根源」の中で、西洋のキリスト教こそが環境破壊と動物虐待の思想的根拠を提供してきたと主張し、大きな波紋を呼びました。

 

しかし現代の聖書学者や神学者の多くは、この「支配」の概念を単なる「征服」や「搾取の許可」として読むことは、テキストの文脈を無視した誤読であると反論しています。

 

ヘブライ語原文で「支配せよ」に使われている動詞「ラダー(רָדָה)」は、確かに権威ある立場を示しますが、同時に責任ある管理者としての役割をも意味します。聖書において王や牧者が民を「支配」するとき、その支配はケアと保護を伴うものとして描かれています。

 

さらに創世記2章15節では、神が人間をエデンの園に置いた理由として「耕し、守るため(לְעָבְדָהּ וּלְשָׁמְרָהּ)」と記されています。ここで使われる「守る(シャマル)」という動詞は、保護・世話・責任という意味合いを強く持っています。

 

スチュワードシップ(管理者)神学の台頭

 

20世紀後半から現在にかけて、多くのキリスト教神学者が「ドミニオン神学」に代わる概念として「スチュワードシップ神学(Stewardship Theology)」を提唱しています。

 

スチュワードシップとは、神の創造物の「所有者」ではなく「管理者・執事」としての人間像です。創造物はあくまで神のものであり、人間は神の代理として被造物を守り、世話をする責任を負っているという考え方です。

 

この観点からすると、動物を不必要に苦しめること、絶滅に追い込むこと、あるいは工場式畜産で動物を単なる生産機械のように扱うことは、神が人間に与えた管理者としての責任に反する行為として捉えられます。

 

旧約聖書に見る動物への配慮の命令

 

聖書全体を通じて見ると、動物への配慮を命じる記述は決して少なくありません。

たとえば、申命記25章4節には「穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはならない」とあります。これは労働している動物がその成果の一部を享受できるようにという、極めて具体的な動物福祉の規定です。使徒パウロは後にこの箇所を労働者への報酬の文脈で引用していますが(コリント第一 9:9)、原典における動物保護の意図は明らかです。

 

出エジプト記23章12節では、安息日に関連して「あなたの牛やろばが休むため」という表現が使われており、家畜もまた休息の権利を持つ存在として位置づけられています。

 

箴言12章10節は特に重要な聖句です。「正しい人は自分の家畜の命をいたわる」——この一節は、義人の証のひとつとして動物への思いやりを挙げており、動物の扱い方が人の道徳性を示す指標であることを示しています。

 

またヨナ書4章11節では、神が不信仰なニネベを裁かない理由として「そこには12万人以上の人間がおり、また多くの家畜もいる」と告げる場面があります。神が人間だけでなく、動物の命をも惜しんでいることが明示されているこの箇所は、動物神学の文脈でしばしば引用されます。

 

新約聖書とイエスの動物観

 

イエス・キリスト自身が動物についてどのように語ったかを見ると、いくつかの注目すべき言葉が残っています。

 

マタイ10章29節では「二羽の雀は一アサリオンで売られているではないか。それでもあなたがたの父の許しなしには、地に落ちることはない」とイエスは語ります。神の섭理が小さな雀一羽にも及んでいるというこの言葉は、動物もまた神の関心の対象であることを示唆しています。

 

ルカ13章15節では、イエスが安息日に女性を癒したことを批判する宗教指導者たちに対し、「あなたたちは安息日でも、自分の牛やろばを小屋から解いて、水を飲ませに連れて行くではないか」と問い返しています。ここでも、動物の世話をすることは善い行いとして当然視されています。

 

 

キリスト教は菜食を推奨しているのか?

 

創造の初めは菜食だった

 

創世記1章29〜30節において、神は最初の人間に対して「あなたがたの食物としては、種のある草、果実のなる木を与える」と語っています。同様に動物にも植物が与えられています。聖書の語る創造の初期状態では、人間も動物も菜食者として描かれているのです。

 

この点を重視するキリスト教神学者の中には、植物食こそが「エデンの理想」であり、肉食は堕落以降の타協であると主張する者もいます。

 

ノアの洪水以降に許された肉食

 

創世記9章3節では、ノアの洪水後に神が「動いている命あるものはすべて、あなたがたの食物となる」と宣言しています。これが聖書における肉食許可の根拠とされています。しかし注目すべきは、これが「原初の理想」として描かれているのではなく、洪水という災害と暴力の世界において与えられた一種の妥協的措置として語られているという点です。

 

つまり、肉食は神の本来の創造の意図ではなく、堕落した世界における現実的な許容であったという読み方が成立します。

 

初代教会と禁欲的菜食の伝統

 

初代キリスト教には、菜食を選ぶ信者たちの伝統がありました。聖アントニオス(砂漠の教父)をはじめとする修道士の多くは、肉食を欲望と結びつけて断ち、菜食を選んでいました。

 

ローマ14章においてパウロは、肉食をめぐる信者間の対立について言及しています。「野菜だけ食べる人は、そうしない人を裁いてはいけない。肉を食べる人も、そうしない人を裁いてはいけない」(14:3)というパウロの言葉は、菜食者の存在を当然のものとして認めながらも、食の実践を信仰の核心ではないとして相互尊重を勧めるものです。

 

現代のキリスト教菜食主義の流れ

 

20〜21世紀にかけて、キリスト教の立場から積極的に菜食(ヴィーガン・ベジタリアニズム)を選択する動きが広がっています。

 

クリスチャン・ヴェジタリアン協会(CVA)はアメリカで活動する団体で、工場式畜産の実態を「神の被造物への組織的な残虐行為」として批判し、植物性食品への移行を信仰的選択として呼びかけています。

 

神学者のアンドリュー・リンジーは著書『Animal Theology』(1994)の中で、動物の解放はキリスト教の中心的な福音の課題であると論じ、肉食産業の廃絶を神学的見地から主張しています。

 

また、コルネリス・モークは「動物は神の被造物として固有の価値(intrinsic value)を持つ」という神学的立場から、不必要な苦しみを与えることは神への不敬にあたると論じています。

 

カトリックと菜食

 

カトリック教会では伝統的に、四旬節(レント)期間中の金曜日に肉食を断つ習慣があります。これは霊的修練・贖罪の実践として行われてきたものですが、動物福祉の観点からこの伝統を再評価する声も近年高まっています。

 

教皇フランシスコは2015年に発布した回勅「ラウダート・シ(Laudato Si’)」の中で、環境問題を「共通の家の世話」として位置づけ、動物を含む被造物全体への責任を力強く訴えました。この文書は、カトリック信者だけでなく、幅広いキリスト教徒、さらに非信者の間でも大きな反響を呼んでいます。

 

 

教会は動物虐待にどう向き合っているのか?

 

歴史的な教会の沈黙と課題

 

率直に言えば、歴史的なキリスト教会は動物虐待の問題に対して長らく沈黙、あるいは消極的な姿勢を取ってきました。

中世ヨーロッパにおいて動物は「魂を持たない存在」として哲学的に位置づけられ(デカルトの「動物機械論」はこの流れを決定づけました)、その苦しみは道徳的配慮の対象外とされました。教会もこうした哲学的枠組みの影響を受け、動物福祉を神学の中心的課題として扱ってきませんでした。

 

しかし近代以降、こうした立場には強力な神学的反論が積み重ねられてきています。

 

現代の教会における動物福祉への取り組み

 

英国国教会(Church of England)は2012年に「環境政策」を公式に採択し、工場式畜産の実態に懸念を示しました。一部の主教は肉食産業への投資に反対し、持続可能な農業を支持する声明を出しています。

 

世界教会協議会(WCC)も気候変動と生態系保護の議論の中で、動物の扱い方を倫理的課題として明示しています。

アメリカでは、一部のメガチャーチが「被造物ケア(Creation Care)」ミニストリーを設け、環境保護・動物福祉を信仰実践の柱の一つとして位置づける取り組みが広がっています。

 

動物虐待と霊的問題のつながり

 

興味深いことに、動物への残虐行為が人間への暴力と相関するという研究結果が多数存在します。FBI(米連邦捜査局)は1980年代から動物虐待をシリアルキラーの前歴として注目し始め、現在では動物虐待を「暴力の連鎖」の早期警戒サインとして認識しています。

 

この観点から、キリスト教の牧師や宗教カウンセラーの中には、動物虐待に対処することが家庭内暴力、児童虐待、地域コミュニティの暴力予防にも直結すると訴える者が増えています。

 

神学者のスティーブン・ウェッブは「動物を愛することは人を愛することの延長であり、動物への残酷さは人への残酷さへの道を開く」と述べており、この視点はキリスト教の隣人愛の倫理と動物福祉を接続するものとして注目を集めています。

 

「ペット牧師」と動物の祝福式

 

現代の教会では、動物との関係を信仰の文脈で豊かにしようとする取り組みも生まれています。アッシジの聖フランチェスコ(1181-1226)は動物への愛と説教で知られており、彼の記念日である10月4日は「動物の祝福式(Blessing of the Animals)」の日として多くの教会で行われるようになっています。

 

カトリック、聖公会、ルーテル派などの教会では、この日にペットを連れた信者が集まり、動物のために祈りが捧げられます。これは一見ほほえましい慣習に見えますが、神学的には「動物も神の創造物であり、祝福を受けるにふさわしい存在である」という宣言です。

 

動物神学の最前線——被造物全体の救済へ

 

「動物の権利」と「動物の福祉」の違い

 

ここで用語を整理しておきましょう。

「動物の権利(Animal Rights)」とは、動物が人間と同様に基本的権利を持つという立場で、ピーター・シンガーやトム・レーガンが哲学的基礎を築きました。この立場は肉食・動物実験・ペット産業をすべて否定する傾向があります。

 

一方「動物の福祉(Animal Welfare)」とは、動物を利用すること自体は認めつつも、不必要な苦しみを与えることを避け、動物の基本的なニーズを満たすことを求める立場です。多くのキリスト教動物倫理はこちらに近く、動物の「固有の尊厳(inherent dignity)」を神学的根拠として用います。

 

ローマ書8章が示す被造物全体の希望

 

新約聖書の中でも特に注目される聖句が、ローマ人への手紙8章19〜22節です。

「被造物は、神の子たちの現れるのを、切なる思いで待ち望んでいる。(中略)被造物も滅びの束縛から解放されて、神の子たちの栄光の自由に入れられる」

 

この箇所は、人間の救済だけでなく被造物全体の解放と回復を描いており、動物神学者たちが最も重視するテキストのひとつです。神の救済計画は人間だけに向けられたものではなく、すべての被造物を包括するものであるという神学的ビジョンがここに示されています。

 

このビジョンに立てば、動物の苦しみを放置・助長することは、神の救済の方向性に逆行する行為として捉えられます。

 

アンドリュー・リンジーの「神性受苦論」

 

オックスフォード大学の動物倫理センターを設立したアンドリュー・リンジーは、「動物の苦しみは神を傷つける(God is hurt by animal suffering)」という大胆な神学命題を提唱しています。

 

イエス・キリストの十字架が示す「苦しむ神(Suffering God)」のイメージを動物にまで拡張し、工場式畜産や動物実験における苦しみはキリストの苦しみと共鳴するという論点は、多くの議論を呼んでいますが、動物福祉をキリスト教信仰の核心に結びつける重要な神学的試みです。

 

 

まとめ:キリスト教と動物福祉は矛盾しない

 

本記事を通じて見えてきたのは、キリスト教と動物福祉は根本的に矛盾するものではなく、むしろ聖書のより深い読解と神学的発展の中で、動物への思いやりと責任ある管理こそがキリスト教倫理の重要な一部であるという理解が強まっているということです。

 

主なポイントをまとめると以下のようになります。

 

聖書の「支配(ドミニオン)」は征服ではなく、神に代わる責任ある管理者としての役割を意味します。旧約・新約を通じて、動物への配慮を求める聖句は数多く存在しています。菜食は「創造の理想」として聖書の中に描かれており、キリスト教的根拠を持つ選択肢です。現代の教会や神学者の間では、工場式畜産・動物実験・野生動物の破壊を信仰的・倫理的問題として取り上げる動きが加速しています。ローマ書8章が示す被造物全体の救済ビジョンは、動物の苦しみをキリスト教の関心事として位置づける強力な根拠となります。

 

動物をどう扱うかは、私たちが神の管理者としての責任をどう果たすかの問いです。信仰を持つ者にとっても、信仰を持たない者にとっても、この問いは現代社会が避けて通れない倫理的課題です。

 

キリスト教の伝統に深く根ざした動物福祉への関心は、単なる感傷的な動物愛護ではなく、創造の秩序を守り、神の意図に応える真剣な信仰的応答として理解されるべきものです。

 

参考文献・推薦図書

– Andrew Linzey, *Animal Theology* (SCM Press, 1994)
– Andrew Linzey & Dorothy Yamamoto (eds.), *Animals on the Agenda* (SCM Press, 1998)
– Pope Francis, *Laudato Si’: On Care for Our Common Home* (Vatican, 2015)
– David Clough, *On Animals: Volume I – Systematic Theology* (T&T Clark, 2012)
– Stephen H. Webb, *On God and Dogs: A Christian Theology of Compassion for Animals* (Oxford University Press, 1998)
– リン・ホワイト・Jr.「生態系危機の歴史的根源」(1967, *Science*誌掲載)


 

*この記事はキリスト教神学と動物福祉の関係についての教育的・啓発的目的で書かれています。各宗派・神学的立場によって見解は異なる場合があります。*

 

 

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この記事を書いた人

阪本 一郎

1985年兵庫県宝塚市生まれ。
新卒で広告代理店に入社し、文章で魅せるということの大事さを学ぶ。
その後、学習塾を運営しながらアフィリエイトなどインターネットビジネスで生計を立て、SNSの発信力を磨く。
ある日公園で捨てられていた猫を拾ってから、自分の能力を動物のために使いたいと思うようになり、猫カフェを開業。
ヴィーガン食品、平飼い卵を使った商品を開発。
今よりもっと動物が自由に生きられる世の中にしたいと思い、行動しています。

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